ステュアート・スペクター物語
プロローグ

 1974年のある日、スチュアート・スペクターは、彼の友人マイク・クロップが所有する戦前のギブソン・フラットヘッド・バンジョーに出会った。その美しい仕上げにスペクターは関心しマイクに尋ねた。すると、そのバンジョーはマイクの大学の友人の手によってリペアされたと言う。ネックは1週間ほどで作られ、塗装はバスルームで行われたらしい。 その時スペクターは思い立った。

 「自分にもギターやベースが作れるんじゃないか?」

ブルックリンの夜明け

 ブルックリンの共同住宅(コミューン)に住んでいたスペクターは、すぐさま自室のベッドルームに作業台をつくり、工具を揃え、楽器パーツ、木材などを買い揃えた。当初、彼には木工技術や知識が無かったため、友人の助けを借りながら何度も「試しては失敗」を繰り返しながら技術を習得していったという。初期モデルの1つそんなある日、仲間からビリー・トーマスという木工技術者を紹介される。ビリーは優れた技術者であり、彼の家系は三代続けて木工業に携わっていた。そして、その誰もが「指が10本揃っている」というのを笑い話として自慢にしていたという。

 「ビリーからは本当に多くを教えてもらったよ。彼は私にとって生涯の親友のひとりなんだ。」

 そう語るスペクターが、ビリーから技術と知識を学びながら最初に製作したベースは、パドークとマホガニーのボディー、ブラス削りだしのテイルピース、エボニーで作られたブリッジを持つフレットレス・ベースだった。「何本フレットを打てば良いか分からなかった。」というジョークを本人は言っているが、実際、最初の1本としてはフレットレスが現実的だったのだろう。その時、ピックアップも自作したが本人曰く「良くない出来」だったらしい。しかし、その後すぐ初期に作られたベースの1本をニューヨーク48番街にある楽器屋"Gracin and Towne Music"に450ドルで売ることが出来た。それは彼にとって最初の成功だった。

 その頃スペクターは、ブルックリンにある共同工房"Brooklyn Woodworkers Co-op"に作業場を構え、元家具職人で主任技術者のアラン・チャーニーと一緒に仕事をしていた。そして、当時はまだ初心者だったが、後にフォデラ・ベースを設立することになるヴィニー・フォデラが最初の従業員であった。

彼の名は "NS"

 1976年、スペクターは工房の仲間たちと、木工機材を売りに出していた家具店を訪れた。そこで家具職人のネッド・スタインバーガーに出会うのである。弦楽器のデザインに関心を持っていたスタインバーガーは、ベースをデザインしたいとスペクターに提案した。そして1週間後、彼に手渡されたデザインこそ後にブランドを代表するモデルとなる”NS”のプロトタイプだったのだ。

NS-2 ネッド・スタインバーガーの頭文字をとったNSシリーズは、初期型である1ピックアップモデルのNS-1、ギターのNS-6と開発され、1979年に2ピックアップモデルのNS-2が発表された。このNS-2がプロ・ミュージシャンの目に留まり、瞬く間に世界中のベーシストに使われるようになったのである。

 コンパクトで独特な三次元カーブを持つNSシリーズは、スペクター・ブランドの確立のみならず、ネッド・スタインバーガーにとっても最初の、特に楽器デザイナーとしての大きな成功であった。ノーベル物理学賞受賞者の父とフルート奏者の母を持つ彼は、芸術大学で彫刻科を専攻し家具職人になる。スペクターと出会う以前はニューヨークの富裕層向けに特注家具を製作していたという。また、椅子のデザインの経験から人間工学についても造詣が深く次のような言葉を残している。

 「ツールは出来る限り体の一部となるべきなのです。優れた形のツールであれば人はそれを全く意識せず、快適に本来の目的に専念できるのです。」

ネッド・スタインバーガー それまでの専門外である楽器を製作するにあたり彼は、「どのように楽器を持つのか、立って弾く場合、もしくは、座った場合はどうか、もっと弾きやすく、もっと快適にするにはどうすれば良いのか。」を考え、「重たいエレキ・ベースが肩や体に負担をかけない為のデザイン」を課題とした。それらを実現したのがスペクター・NSシリーズなのだ。

 NSをデザインした後の彼は、すぐに「ヘッドレス・ベース」のコンセプトを思いつく。従来の形に束縛されないデザイン、新しい素材、それらから得られる新しいトーンを欲し、開発されたのが「スタインバーガー・ヘッドレスベース」だった。革新的なデザインのそれは、米国産業デザイナー協会(IDSA)の"Design of the Decade"や、タイム誌の"1981年 ベスト5デザイン"など、多くの賞を受賞している。

ビッグ・カンパニー

白スペ NS-2の登場によって、スペクターは初期に成功したアクティブ・サーキット搭載ベースのひとつとなった。80年代のアーティストはこぞって"新顔"のスペクターを使用し、楽器業界もこれに追従したかたちでアクティブPU、コンパクト・ボディのベースを生産するようになっていた。

 その後スペクターは、JJピックアップ・ボルトオンモデルのNS-2Jなどバリエーションを増やしていく。そんなある日、当時M&Aで会社を大きくしようとしていたクレーマー社から声がかかる。たった2人での生産に限界を感じていたスチュアート・スペクターにとってこれは良いチャンスだった。ブランド成長させ大きな市場へ挑戦するためには資本の増強が不可欠だと考えていたのだ。

 1985年、スペクターはブランドをクレーマー社に売却する。いわゆる「クレーマー期」の始まりである。今まで使われていた木工機械は全てニュージャージーにあるクレーマーの工場に移され、彼自身はコンサルタント役としてそれらベースの製作に携わるようになる。今までの工房とは違って施設も充実し、最新鋭の設備が揃い、そこで働く従業員もとても多かった。しかし、その5年後にクレーマー社は倒産。スペクター・ベースが世界中の楽器店から姿を消すことになる。権利上の問題でベースのデザインとスペクターの商標をスペクター本人が使用できなくなったのだ。これは大きな打撃であった。

チェコ・スロバキの夜

SSD なんとかベースのデザイン権を取り戻したスペクターは、1991年に新ブランド「ステュアート・スペクター・デザイン(SSD)」を発足し、SSDのロゴを付けて楽器業界に復帰した。その後もブランド名を取り戻すため根気強く法廷で争い、1998年にやっとスペクターのトレードマークが本人の元に戻ってきた。

 数年に渡る法廷闘争や結果的には金銭の支払うなど、スペクターにとって受難の時期ではあったが、この間にはNSとは異なるデザインのSDシリーズや、チェコ製、韓国製、中国製など、今までとは違った展開を見せるようにもなった。特に海外で生産することによって可能となった低価格のスペクターが実現し、より多くのスペクター・ファンを生むことにもなったのだ。

ニューヨークの楽器職人

 現在は、ニューヨークのウッドストック郊外にワークショップを構えベースを製作している。USシリーズは、ネック・スルー・モデルで月産6〜10本、ボルト・オン・モデルで月産20本弱の生産量だと言う。それらの技術はもちろん1974年から長年にわたって培われてきたものだ。使われている機械も、ものによっては25年以上ずっと同じものが使われている。そして本人が「インターナショナルなパパ・ママ経営」と称するように、SSD期に続きチェコ、韓国、中国でもスペクター ベースは作られている。モデル・バリエーションも増え、価格帯も幅広い。

 いまだに見るものを魅了してやまないそのデザインと、個性を打ち出すスペクター・サウンド。これからどれほどミュージック・シーンが変わろうとも、スペクター ベースはその中にあり続けるだろう。

Stuart Spector
参考文献
Getting To First Bass: Stuart Spector
http://www.spectorbass.com/NewFiles/tblmay00.html
About NS Design
http://www.nedsteinberger.com/inside-ns/about.html
Spector Guitars by Kramer
http://www.vintagekramer.com/spector.htm
Stuart Spector - High-Flying Success with Low Notes
http://www.basssessions.com/feb05/lownotes.html
>>> スペクター入門 に続く <<<
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